芸術性か集客力か

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YouTuber批判

最近のジャズ界における風潮で、YouTubeで成功している音楽チャンネルの音楽性の低さを批判する、集客力のある演奏家の演奏技術の低さを批判する、という言動を散見します。その方々の批判に耳を傾けると一理あります。また、批判されている側の方々の音楽に耳を傾けてみると確かに改善の余地はあるなと思えなくもありません。ですが、私はこの風潮に違和感を覚えています。

例えば、成功しているYouTubeのチャンネルにEmmet’s Placeがあります。ニューヨークのジャズピアニストEmmet Cohenがコロナ禍で始めた自分の部屋からのライブ中継ですが、ニューヨークの名だたるミュージシャンをゲストに招き、今や登録者数21.7万人のおそらくジャズでは最強のYouTubeチャンネルです。ミュージシャンの中にはこのチャンネルを快く思っておらず、”歪曲化したニューヨークジャズシーン”、”金集めの達人”などと批判する向きもあります。確かにEmmetがニューヨークを代表する実力のあるジャズピアニストかと言えばそうでは無いと私も思います。ケニー・バロン、ビル・チャーラップ、アーロン田パークス、ケビンヘイズ、など名前を開ければキリがないくらい素晴らしいピアニストがいます。では、Emmet’s placeはそれらの批判に甘んじるべきチャンネルなのか。私は全くそうは思いません。それは、なぜか。

 

民主主義とメディアの変化

まず、ジャズは民主主義の音楽。その民主主義においては、発信も発言も自由が担保されています。ソーシャルメディアやYouTubeの民主主義的メディアの発展により、発信の情報量は桁違いに増え、それに伴いその発信に対する賛同の情報量と批判の情報量も桁違いに増えました。以前は個人の中に燻っていたストレスも言語化されて流通するようになったとも言えます。それ自体は悪いことでは無いし、人間の本能に即した発展だと捉えることもできます。一方で、行き過ぎた批判やイジメに発展するケースが後を絶たずソーシャルメディアの規制が法令化されたケースもあります。

 

資本主義と音楽

次に視点を変えて資本主義の観点から見ると、”フォロワーや登録者の数=資本が集まるポテンシャル”と見るとができます。ユーチューバーやインフルエンサー業はまさにこの力学で成り立っているわけですね。彼らには大企業の資本が集まります。この観点からは、多少品質が劣ろうが、求められる者が勝ちと言えます。しかし、芸術の観点からはどうか。それは、リンカーンセンターなどの一流のコンサートホールで奏でられる音楽が良いに決まっています。ブルーノートなどのメジャーレーベルから出されるアルバムが良いに決まっています。芸術性を求める場合は、そういう場に行くのが最良の選択なのです。

場違い

では、私が覚える違和感はどこから来るのか。それは、一言で言うと、これらのYouTuber批判は”場違い”なのだと思います。芸術性や音楽性の高さを求めるのであれば、コンサートやメジャーレーベルから出されるアルバムが相応しい場です。一方でYouTubeは、エンタメ=暇つぶしの場なので、時間を消費する人が集う場であって、芸術性を求める場では本来無いのです。人を集められる者が勝つ、そう言う場なのです。だから、成功しているYoutuberをコンサートホールで客を満員にできない芸術家が批判するのは場違いだと思います。江戸の仇を長崎で打つと言いますが、まさにそれが当てはまります。

 

集客のアウトソース

それでは、日本のジャズクラブのブッキングが集客力のあるアマチュアミュージシャンで占領されつつあることはどう見れば良いのか。私はこれは、”集客に苦労したジャズクラブが集客という役割を手放してアウトソースし始めたのだ”と位置付けています。したがってアウトソースする先は当然集客のプロであって芸術家では無かったと言う事です。彼らは音楽のクオリティではアマチュアでも集客ではプロなのです。日本のジャズクラブがそれで良いのか、と言う議論はあって良いと思いますが、アマチュア・ミュージシャンを批判するのはやはり筋が違うと思います。

 

まとめ

資本主義と民主主義に支えられたメディアの発達に伴い、音楽家の在り方は、より社会的な要素が求められる方向に変化してきました。その一つが、集客力です。いかに芸術性が高くても集客力の無い音楽家は居場所が狭くなり、音楽性が低くても集客力の高い音楽家の方が活躍の場が広がって来ました。そういうトレンドの中に私たちはいるのだと考えています。そして、このトレンド対する不満を発信するのも自由です。でも、場所と批判の相手を間違えないようにしないといけませんね。

 

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